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第2話

 日陰のバイテクチームはある朝、突然に生まれたわけではない。水稲の育種は国に任せておけばよい、自前の新品種開発など不要−という考え方が主流の時代であったから、チームがスタートするまでに、さまざまの伏線があった。昭和40年代は、前半が質より量の時代だったし、後半は米の生産調整が実施され、自主流通米の出回り量も少なく、銘柄米を巡っての産地間競争も目立たなかった。各県が独自のブランド米づくりにしのぎを削るようになったのは50年代に入ってからだ。

 コメの育種については本県は国にオンブにダッコの不毛の地だったのではない。古くは、昭和6、7、9、10年と続けざまに見舞われた冷害、凶作を機に、東北6県に凶作防止試験地が設けられた。本県では遠野市に置かれ、国立農試奥羽試験地などで交配した初期世代の種の配布を受けて育成、遠野1〜4号を誕生させた(山本文二郎著「こめの履歴書−品種改良に賭けた人々」)。

挿絵  ずっと下って50年代半ばには、放射線育種により「いわて21」「岩手26号」の開発を始めた。その後、ブランクになっていたが、55、56、57年と3年続きの不作に「耐冷制性の強い岩手米はできないのか」という声が強くなり、県議会でも取り上げられた。手を挙げたのは主にヤマセ地帯の県北沿岸部の議員たちだった。
当時、県農産普及課の研究調整主査だった北舘忠は、「そのころ国は(宮城県)古川農試や(青森県農試)藤坂支場など試験機関を「つくば」へ移して集中化しようと考えていた。議員さん方の発言は国の施策と逆行するわけだから、たとえ県が手を挙げたところで、国はオーケーをしなかったろう」と振り返る。こんな状況だから、独自ブランドをつくるとしたら自前でやるしかなかった。

 バイテクチームが生まれる前年、県農政部長に就任した中谷眞也は岩手大学農学部で作物を専攻、振り出しが県農試種芸部だから育種には大いに関心があった。

 「農政部には試験研究推進構想という事業があって10年ごとに立案し、5年ごとに見直しする。そのどっちだったか忘れたが、部長も代わったことだし、この際、水稲品種開発を絡めたバイテク技術を進めてみるかと声をかけた。」 世はバイテク時代だった。「農業先端技術応用化推進事業」と銘打って、コメの「コ」の字も言わない構想が浮上したのだ。

(当時の役職名使用、文中敬称略)

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