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第3話

 「ゆめさんさ」と「かけはし」は昭和10年代に遠野凶作防止試験地が遠野1〜4号を開発して以来の伝統の上に結実したといわれるが、バイテクチーム結成を呼びかけた中谷眞也の見方は異なる。

 「結局、遠野の人脈は残らず、伝統は断絶した。放射線育種を手がけた昭和51年以降が新しいスタートになった。」 米の育種には大変な人手と時間と金がかかる。岩手独自の米の開発が叫ばれながら、おいそれとできなかった最大の理由である。さらに挙げるとすれば、県民性というところか。
東北6県に置かれた凶作防止試験地は、後に廃止されたが、藤坂試験地は青森県農試支場として存続、山形県尾花沢、福島県猪苗代は事業内容を変えたりして残った。国に言われるままに従ったのは遠野。素直だが結果的には展望を欠いた。

 中谷がバイオテクニックを前面に押し出したのは、タブーの水稲育種の隠れみのにするだけでなく「バイテク技術を使えば、人、時間、金が今までよりも小さくて済みそうだ」と考えたからだ。

挿絵  そったくという言葉がある。ひなが卵からかえろうとするとき、親鳥とひなが絶妙のタイミングで殻をつき合って削る。転じて、機を得て両者相応ずること。中谷が試験研究推進構想の見直しを考えていたところの県農試場長古沢典夫もバイテク時代をチャンスととらえていた。「品種改良しない農試なんて意味がない」が口ぐせの古沢にとって、金がない、物がないの現実はしょうがないとして、「技術者がいない」とみられていることが腹に据えかねた。

 食管制度が崩壊するなか50年代に入って自主流通米、あるいは自由米の出回り量が年々、大きくなった。食味のいい米が好まれて銘柄米が人気となり、産地間競争が活発化した。本県では55年から3年続きの不作で、耐冷性の強い品種が要請された。

 こうした状況、小状況がいくつも重なり合うなかでの中谷と古沢のそったくだった。中谷は「農業先端技術応用化推進事業」の予算化を進め、古沢はこれに携わる4人組の人選にとりかかった。

 育種は一口に10年と言われる。形質の優れた株を探して、10年間のサイクルで世代を重ねながら選抜を繰り返していく。「育種とは99.999%捨てること。育種とは捨てることと見つけたりだ」と中谷は言う。

 10年かけたからといって商品たり得る品種が出る保証はない。宮城県古川農試では一大傑作の「ササニシキ」を送り出した後、「ひとめぼれ」を世に出すまで、長い不振の時が流れ、ついには自殺者騒ぎを出すほどの重圧を受ける世界なのだ。
(当時の役職名使用、文中敬称略)

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