第1話 第2話 第3話 第4話 第5話
第6話 第7話 第8話 第9話 特別篇

第9話

 より良い種を求めて、モミに育てては捨て、捨てては育てる。賽(さい)の河原の石積みにも似た仕事を繰り返しているうちに、一筋の明かりが見えてきた。育種目標にかなう形質が、ほぼ固定されだした系統が現れたからだ。昭和63年に生産力予備試験を行った88P12は後に岩126、岩手34号を経て「かけはし」となった。89P93は岩194、岩手36号から「ゆめさんさ」と名付けられた。

 新しい米が奨励品種に決まったとき、あるいは冷害を克服したときなど、育種屋たちの喜びはさまざまだが、育種チーム創設メンバーの1人、佐々木力が一番うれしかったのは岩手34号、同36号と地方番号が付いたときだ。

 「地方番号が付くと他県で交配親に使ってもらえる。世間から認知され、日陰から日なたに出た。力士が十両になったときが一番の喜びだそうだが、それと同じだった」。

挿絵 木内豊も同じ思いだった。「他県の育種仲間に一緒に圃場を巡回しようと誘われたときは何よりだった」と語る。

 平成5年2月、岩手34号と同36号が県の奨励品種に決まったが、初め県は大規模生産が望める中生種の36号を奨励品種として34号より1〜2年、先行させようと考えた。当時34号の出穂期に揺れがあると指摘されたこともあるし、県と育種現場の立場の違いもあった。県は1日も早く県産オリジナル米の主産地づくりを進めたい。一方、耐冷性に優れた34号への育種屋たちの思い入れは強かった。

 平成2年に育種チームに参加した小田中浩哉は「最初に34号を見たときからいいと感じた。何とかしたいと思った」。小田中は先輩らとともに当時の県農試場長、佐藤忠士に一括指定を訴えた。佐藤も同じ気持ちだった。県農試県北分場長として、実際に34号を育てた石川格司は「36号に遅れて出せばパンチ力不足となる」と応援のエールを送った。

 男たちの働きかけが実って、34、36号はセットで指定された。出穂期の揺れを指摘してきた青森県は、後に欠点を克服した34号を、7年の春、同県の奨励品種に加えた。一方的に岩手県に種子を提供するだけだった青森県農試内に「何でよその米を奨励しなければならないのか(Iゥゥ」と嘆く者もいたという。岩手の育種屋たちの得意はどれほどだったことか。

 34、36号の開発は一つのプロセスだ。小田中より2年前に参加した扇良明は「34、36号が駄目でもサンプルは増えていくのだと考えた」。4人でスタートした育種屋も今では9人に増えた。佐々木も「34、36号は途中経過。基礎、体制はできたのだから、次世代にさらに優れた育種を期待する」と「これから」を強調する。

(当時の役職名使用、文中敬称略)

HOME > 夢のかけはし物語